2004/1月号

 
 昭和20年の頃を思う。戦火を逃れて新潟の母の生家に疎開していたときのこと。祖母が私に団子をつくるから手伝えといって、石臼で米粉を挽いた遠い記憶がある。
 囲炉裏端にゴザかムシロかを敷き、石臼を置いた。その時他の従兄弟達がいた筈だが記憶の中では祖母と二人で対峙していたように思う。道具や米粒、入物は全て祖母が用意したのであろう。ただ二人で向き合って石臼の引き手棒を廻していた。
  臼の口にいっぱい米粒を撒蒔いておき、供給口(真中ではなく少し外側に寄っていた)に、一回転しては米の粒を落としていく。私がとうせ挽くならと、穴の中に思いっきり送ってやったら、そんなに沢山送ると粉に粗いものが出ると言って叱られて手を引っ込めた。
それが昼か夜か良くわからぬ。ただ、ゴロゴロ。。ゴロゴロ。。とある快い響きと祖母の声が耳朶に残っている。その時、どんな団子を食べたか、全く憶えていない。


 こんな風景が、高度成長期に入るまで日本の農山村を中心にみられたのであろう。米粉、黄粉、蕎麦粉、小麦粉…等も手掛けられたが、今はお祭りとか、ハレの日の御馳走づくりに極まれに使われることがある程度で石臼は家庭から姿を消していった。
 例外的に蕎麦粉は石臼挽きがよいとされて、人力ではないが、自家製粉されたり、蕎麦製粉会社で石臼で生産されている。
 人類は洋の東西を問わず、粒食する以外の穀類・果実等を臼で加工し食して来た。
 本稿では蕎麦と石臼の関り合いを確認していきたい。

日本での臼は、餅をつく臼、上下二つの石を重ねて粉体にする石臼も臼ともいうが、中国では臼は杵(きね)でつくものをいい、回転させて粉を作るものを磨という。(三輪茂雄著 “粉と臼”より、以下参照図書とした。)

ここでは粉をつくる石臼のことを考えていきたい。
 古いものでは、17000年前の石器時代の遺跡から粉砕用の石臼(搗き臼とすり臼)の形跡が発見されており、BC3000年メソポタミア、エジプトでも2種類の石臼が利用されている。壁画にもつき臼が色々な用途に使われており、ピラミッドの副葬品に「王の為に粉を挽く女の像」があり、これを「サドルカーン(笑って粉を挽く)」といい、石材の加工技術が発達したことを示している。固定式のサドルカーンから回転式のロータリーカーンへの発展するのが紀元前500年でギリシャのデロス島から出土した置物から判明しているという。(溝などはかなり後のことである)
 手動であったものが、畜力、水力、風力の動力から現在のエネルギー源に変化していくのは諸産業と同様である。
 では日本の臼の発達は、どうしてか結構謎の多いところであるが、日本書紀に「推古天皇の18年(610)、渡来僧(高句麗)2人が、“碾磑(てんがい)”という石の臼を造ったのを始まりとする」と記述がある。

 九州大宰府の観世音寺に現存する石臼は八分画の10溝の見事なものであるが、如何に使われていたのか判然としない。碾磑と称せられた石臼の記録が、東大寺や唐招提寺の関係之書にあるが、鎌倉時代まで石臼の形跡が日本列島に発見されていないという。これは謎である。
 やっと石臼が現れる。それは京都五山の一つ、臨済宗東福寺大本山 東福寺に、わが国最古の石臼古文書がある。それによれば、宋代の中国から技術を聖一国師(弁円1202年〜1280年)が伝えたといわれ、国師が寺院を建設された参考書(大宋諸山立図一集文)の中に「水磨様」と書かれた石臼式水力利用製粉工場の立面図がある。1976年韓国、新安沖で大量の白磁、青磁を積んだ中世の交易船が発見され、この中に小型の石臼2点が含まれており、これが聖一国師帰朝の80年後といい、この鎌倉時代に渡来し始めたと考えられる。

 日本は粒食が中心で小麦等を粉砕することが少なかった事が、石臼の発達を遅らせたのかもしれない。この時代から石臼はお茶を挽くことを中心に発達していく。
 戦国時代、大名達がこぞって茶を好み、戦場にも持ち出した。茶を石臼で挽き、これを野で点じたとも考えられ、茶臼山という“山”が全国各地に在り、この事とは無関係ではないらしい。

 以後、江戸時代に入って、衣食住文化が発展安定していく。江戸時代は封建時代とはいえ、ほとんどの文化が醸成、完成された時代と言っていいと思う。
 三輪茂雄先生の調査によれば日本の石臼は八分画と六分画が散在している。これは通婚圏の拡がりによるのものではないかという。筆者は以前にも書いたことがあるが、徳川幕府の移封制度によるものも多いと考えられる。

 江戸時代の蕎麦粉は採り分けはできなかったであろうが、蕎麦果実をそのまま挽い篩ったものか、一旦外皮を抜いて挽いたものか両方であったであろうが、判然とする資料がない。
 膨張する江戸の街では、風鈴そば、夜鷹そば、そして店売りそばと発展していき、懐石料理にもなっていく。石臼の汎用性は広く時代を支えた道具であった。食品の粉砕は勿論のこと、染料、顔料、薬品、化粧品の製作過程の粉砕用に活躍する。

石臼の石は一般的に花崗岩、砂岩、溶結凝灰石、安山岩などがあるが、蕎麦粉の場合、更に軟質の蟻巣石等を使う場合がある。臼そのものの更に詳しい発達史や、種類、機能については別揚の参考書をお読みいただきたい。

 蕎麦製粉業の初期の頃、製粉業者は“ぬき屋”と呼ばれていた。入荷した蕎麦を精選し、三角稜の外皮を除いた“ヌキ”を作り、これを蕎麦屋さんに届けていた。
蕎麦屋さんは“ヌキ”を買い、自家の臼で粉にして使用、或いは“臼屋”という職人さんに工費を払って、蕎麦粉を挽いて貰う。職人は一軒済むと次のお店に“粉を挽きにきました”と訪問し、一日に何軒か廻っていた。挽き方の上手、下手もあったのであろう。その形態は昭和の初期までは続いていたようだ。
現代でも一部の蕎麦では“ヌキ”を購入して自前で製粉し、そばを作っている。

石臼は食文化の発展の中で、重要な必需品であったが、産業革命後だんだん姿を消していき、ほんの一部の加工品(食品)に使用されているだけとなっている。
コスト低減とスピードの要求されている現代、技術も向上して石臼に替わる粉砕機が活躍し、石臼は貴重な存在となっているが、筆者の場合はゴロゴロという音と石臼を挽いた想い出はノスタルジックにいつまでも残っている。

【参考文献】
●三輪 茂雄著 “粉と臼”1999年 大巧社
●三輪 茂雄著 “粉の文化史”1987年 新潮社



▲石森製粉HOME