2002/12月号
 
人々の食生活の中で、水は絶対的に必要なものである。

 遠く文明が花開いた時、河川があった。
チグリス・ユーフラテス川のメソポタミア文明、ナイル川のエジプト文明、中国には黄河・揚子江があり、近世の都市も、ロンドンのテームズ川、パリのセーヌ川、ニューヨークのハドソン川、京都の鴨川、東京の荒川・隅田と枚挙にいとまがない。

 一杯のさるそばを食べるのに、そばの数十倍の水を要する事は充分に想像できる。
 我々日本人は高温多湿の水の豊かな国で生まれ育ち、つい水の有難さが念頭から消えている事が多い。
 近世都市 江戸、東京も1603年徳川家康が江戸幕府を開き、都市文化が発達していったが、急速な人口増加を伴った。荒川、大川(隅田川)、多摩川、江戸川と幾つかの河川があるものの、江戸城中心の都市部では全て水に恵まれていた訳でない。比較的起伏のある江戸の台地や、低い湿地帯に住む人々にとっては、井戸も充分出なく質も悪くて、水を買っていたのも事実である。
考えられたのは溜池や上水の工事である
  ●神田上水(井の頭池、善福寺池が源流)
  ●赤坂溜池
  ●玉川上水
等がある。

 中でも有名なのが「玉川上水」である。多摩川の羽村から取水し江戸へ供給しようという計画。福生・拝島・砂川・小金井・吉祥寺・高井戸・幡ヶ谷・代々木・角筈・千駄ヶ谷を経て、四谷 大木戸に至る52キロの本水路と辻々で分水して配分する大工事であった。僅か1年半で完成された突貫工事であった。

 江戸城を主とし、四谷、麻布、赤坂、芝、京橋にも給水され、神田上水と共に飲用水として江戸市民を潤した。

 玉川上水の工事模様が、杉本苑子氏の「玉川兄弟2巻」に小説として描かれている。川越藩主 松定信網とその家臣の安松金右衛門及び庄右エ門と清右エ門の二人兄弟が中心となってこの難工事に取り組んだ。
 二人はのちに名字、携刀が許され、玉川庄右エ門、玉川清右エ門と名のることになった由。
 時は承応三年(1654年)6月のことである。完成した玉川上水は武蔵野の台地を駆け沃野に変え、穀類、菜類を産し村々では水車が廻り、人々の生活環境が改善され飛躍的に食生活も向上したと思われる。(安松金右衛門は後に野火止用水もつくっている。)


 かくて蕎麦の生産も増加し、江戸そばも玉川上水の完成と共に発達して来たといっても過言ではない。
 1662年(寛文2年)江戸吉原で「けんどんそば」始まるという記述(洞房諸圏)がある。これも水の普及のお蔭であろう。 そばに箸をつける前に、玉川兄弟や工事に携った人々の流した血と汗とその苦労を偲んでみるのも大事かもしれない。

 

【参考文献】

  • 全国蕎麦製粉協同組合 組合20年史
  • 杉本苑子著 『玉川兄弟』
  • 中田敬三著 『物語 信州そば辞典』
  • ひろさちや、杉本苑子他 朝日カルチャーセンター 『川と文化』
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