2002/11月号


 江戸そばを語るとき“中野のそば”を入れておきたい。

 東京の中野は、武蔵央に位置することから中野と呼ばれたらしく、平将門が天慶の乱(939年)で武蔵中野へ出陣したとある。徳川の時代には青梅街道にあって農作物、生産と集散の交流の中心的役割を果たすようになる。
 綱吉時代(1695年)、江戸の無主の犬を収容する“お囲”という収容場所が出来て一時は10万頭に達した。
 吉宗時代にはヴェトナムから献上された象を預かる等、広い場所を活用したという。
 そうした環境の中で中野の地には、そば製粉所や味噌・醤油の醸造所が軒を連ねて農民や高人達が往来したと思われる。
武蔵野台地(吉祥寺・小金井、等街道沿い)から蕎麦や穀類が中野に集まってきた。中野のそば粉屋(ヌキ屋)は蕎麦の皮を剥ぎ、その子実(ヌキ実)を江戸市中のそば店に供給していたという。

 中野の蕎麦について東京都麺類協同組合S’34年『麺業史』の中で石森製粉所・石森安太郎氏が紹介している項を引用すると「徳川時代蕎麦切りにして、江戸庶民に親しまれていた頃の蕎麦は現在の荻窪、高井戸、吉祥寺、連雀、小金井、神代等江戸西北部のものに依存し、馬の背に依りこれを中野、淀橋、練馬方面に輸送、粉屋の手により江戸に供給されていたものと考えられる。
 かかる地理的関係から明治初期に於いては、この地区には「
〜社名省略〜」が軒を並べ、その数5・60店にも達していた。」

 「中野淀橋の業者は前期城北地区の玄蕎麦を買い取り、これを乾燥加工して江戸の町中に供給したが、その当時の加工は玄蕎麦を精選脱穀して引抜と称し、これを商品として売買したのである」

 更に昭和の初期「食味の神髄を探る」という波多野承五郎氏の筆による書物の中での中野のそば屋の紹介は「東京郊外の中野には、専業の蕎麦粉製造工場が五箇所ある今日、東京の蕎麦粉は主としてこれらの工場から供給されている。なぜ蕎麦粉がこの町だけで製粉せられるかというに、これには歴史的因縁がある。」云々、以下 武蔵野を東西に走る青梅街道や沿道は広い台地に広がる畑があって、中野は江戸への農作物の絶好の主地にあったこと等が述べられている。


 石森製粉は創業130年ですが、先人達の意を確認し良品質の蕎麦粉をつくり続けていきたいと願っています。

 

【参考文献】

 武蔵野における中野の風土と人々の暮らし
   −中野区立歴史民族資料館 
 そばの技術(有楽町 更科 覚え書)藤村 和夫著


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