2001/12月号

 先にそばの歴史について述べたことがあり、日本では722年(養老6)元正天皇が救荒作物として蕎麦を栽培するよう詔勅で奨励した記述が『続日本書記』にある。
 石臼が渡米し庶民の間に定着するのが鎌倉時代、更にそば切(現在のそば形態のもの)が普及するのが戦国時代から江戸時代にかかる時期(1600年前後)で、現代まで僅か1300年位のことである。文字が普及して記録を残せるようになる以前は、人々はどのようにして蕎麦を食していたのだろうか。今回はそば≠フ考古学?をやってみたい。


 そもそも蕎麦はどこからやってきたのだろう。シベリア東部、中国東北部、中央アジア説があったが、最近は中国西南部の雲南省ではないかといわれている。京都大学農学部(大西教授)の1990年雲南省永勝県でソバの野生祖先種を発見したことによる。
 そばの伝播はシルクロードを通ってヨーロッパへ、ヒマラヤ方面からインドへ、日本へは朝鮮半島からの大陸説、中国南部からの島づたいの上陸という海洋説と分かれるところ。
 更に古代遺跡の発掘から(昭和18年−登呂遺跡発見)米、麦の種子に混じって蕎麦粒がみつかっている。弥生時代(2世紀〜数世紀)の集落地である。 少しさかのぼった時代では、鳥取の遺跡からそばの花粉がみつかっているという。


 このあたりは本物の考古学に譲ることとして、ここでは登呂時代からそば切が出るまで人々は蕎麦をどのように食べていたかを考察したい。こうなってくると、米、麦、蕎麦の農耕器具、粉砕具、調理方法を調べる必要が生じいささか手におえない。農葦原瑞穂の国の米の産地の日本は、基本的にごはんを食べていて、果皮の剥きづらい麦、蕎麦は補食的要素であったはずである。石と石で粉砕して皮を飛ばし、残った殻粉を水で練ったりして、煮たり焼いたりして食されていたと思われる。

 そばは栄養もあり、消化がよいとして昔仙人や行者が山中修行するに携行食として持ち歩いたこんな時代であったであろうか。行者の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)−小角(おづぬ)は奈良時代の人で、奈良県葛城に生まれ、金峰山、大峰などを開いて修道苦行をした。そば粉を持ち歩いていたことは想像に難くない。722年頃やっと文字が支配階級に普及して記録ができるようになるまで、人々の生活の様子は遺物から推測するしかなく諸文献を読んでもあまり詳しく判らない。前述したように蕎麦から粉状のものを取り出し、湯を加えていわゆるそばがき¥で食べたのが主流であったであろう。


 (株)作品社の『日本名随筆集蕎麦=xを読んでいたら新島繁先生の文の中に、中国の宋から渡来した博多商人謝国明≠ェ大晦日に庶民にそばがき≠振舞った。窮民達は大喜びで、これが晦日そばの発祥の一説であるという。
 時は今NHK大河ドラマ『北条時宗』に謝国明は登場するおなじみの人物。この時代(時宗1251〜1285年)はそば切はまだ出現せず、そばがき¢S盛であったと思われる。どのようにして調理したか、どんな味付けをしたか興味のあるところであるが、正確な記述なく本格的な料理書や、博物誌の出現は江戸時代まで待つことになる。

 全国各地に蕎麦粒山とか、蕎麦岳と名のつく山がいくつかあるように(別掲「蕎麦粒山」参照)蕎麦は有史以前から人々に親しまれて、愛用されていたことは確かで、蕎麦がきで風味を賞じ、食を満たした昔人が偲ばれます。


 


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