2001/9月号
そばと文学というと何かと仰々しい話に聞こえるかもしれないが、人間の心を描く文学作品の中で、心情のテーマばかりでなく、人々の生活環境(衣・食・住)は当然出てくる訳で、食の話は至極自然であろう。まして日本の伝統的な食べ物で、人々に愛好されてきたそば≠フ登場は、懐かしさと食欲も出るというもの。浅学のことで沢山は知らないが、印象に残った作品をいくつかご紹介しよう。

夏目漱石『吾輩は猫である』

『獅子文六』

志賀直哉『豊年虫』

池波正太郎

名だたる文豪:
夏目漱石の有名な『吾輩は猫である』の一節


のんびりとした先生(苦沙彌)-それでいて人生及び世の森羅万象に興味を持ち、訪れる客達と様々に批評する社会風刺は面白い。迷い込んだ猫の吾輩がそれを茶化すスタイルのパロディーは、現代世相の反射鏡にするのも一興である。


 そうそうそば≠フ話である。苦沙彌先生のところへ迷亭氏なる客人が訪れ、来る途中で自分の昼飯にもりそば≠あつらえてきて、主人の前で食する描写があってこれが面白い。ご本人いかにも食通ぶって、そば≠ヘこうして食べるものだと、山葵(わさび)をつゆの中にたっぷりと溶かし込み、つゆはたっぷりつけるものではないと、箸を使ってつまみあげる。そばは結構長くて持ち上げるまで苦労する。三分の一位をつゆにつけ、鯉の滝登りのごとくズーズーと音を立てて流し込み、そばの薀蓄を紹介しながらざるそば≠平らげる。主人と妻君はホーホーと感心して眺めているだけ。迷亭氏山葵(わさび)にむせて咳き込んでしまう落ちが面白い。

 漱石先生自身、おそばが好きであったかどうか定かではないが、そばの食い方は漱石の意見か、そば通の人から聞いたのか、それほど詮索することではない。しかし『吾輩は猫である』に紹介するだけ大好きだったのだろう。時は明治の末、国民の間でも大いに人気のあった食物であったことは確かである。


◆志賀直哉の『豊年虫』という短編小説より

 信州戸倉温泉で執筆中の氏が、疲れ癒しに時々散歩を楽しむ。あるとき気が向いて汽車で上田まで出向き、人力車に乗ってあちこち見物。その途中ふとそば≠ェ食べたくなって車夫の案内で名代の見せ「藪」に入る。

 以下原文「蕎麦は黒く太く、それが強く縒(よ)った縄のやうにねぢれてゐた。香が高く、味も実にうまかった。私はこれこそ本当の蕎麦だと思った。ただ汁がいかにも田舎臭く、折角の蕎麦を十二分に味付けしてくれなかった。東京の蕎麦好きが汁だけ持って食ひにくるという話は尤もに思われた。・・・私は車夫に蕎麦を誉めると、車夫はよろこんでゐた。」 氏は帰る途中、停車場のアーク燈に火取虫(この地で豊年虫という)という蜻蛉(かげろう)に遭遇する。虫の飛び交う夕方に、土地の人々のとりとめの会話の中に田園都市の生活があった、という物語である。

 直哉は東京のいわゆる江戸つゆ=i鰹節と味淋と砂糖のきいたつゆ≠ェ口に合っていたと思われるし、そば粉の比率の高い地元の風味を味わったのであろう。どんな味かなと我々も読みながら口の中にじんわりとそばの味が拡がりそうである。

 蛇足(株)作品社に『日本の名随筆』という全集ものがあって題は酒、花、冬等と様々な事柄に関するもので著名人の思いが書かれている。その中に蕎麦≠ェある。編者はグルメといわれている渡辺文雄氏で、色々な人が蕎麦にまつわる想い出が綴られていて、肩のこらない読み物である。是非一読を。

◆『獅子文六』

 文士が集まって会合するとき、よく滝野川のそば屋の二階を利用したらしい。大正から昭和の初めのころ、集うところはそば屋≠ニ決まっていたのだろうか。そしてそば屋≠フ集合場所に異を唱える人は少なかったのだろうか。

◆そば″Dきの文士 池波正太郎

 氏のそば好きは衆知の事実で、『真田太平記』を信州上田で執筆するときは地元の「刀屋」(そば店)へよく通ったとか。氏の食べ方はわさび≠つゆの中に溶かさないで、もりそばに箸でとったわさびをまぶして食べるとうまいという。

 氏の代表作『剣客商売』には、やたらそば屋が登場する。張り込みがそば屋の二階だったり、馴染みの女や、昔世話した家人達がそば屋を営んでおり、そばを通して交誼を続けている話は微笑ましく、一服の清涼感がある。


▲石森製粉HOME